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  <title>野良猫ジャーナルblog</title>
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  <description>関曠野を始めとするコラムニストのためのblog</description>
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  <title>憲法と法律</title>
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  <description>　憲法と法律。この違いについて少し考察してみたい。憲法と法律の違いを私の母に聞いてみたところ、分からないと言う答えが返ってきた。実のところ私も怪しい。国民の何パーセントがこの違いを認識しているのか、また分からない原因は何なのか、少し興味が湧いてきた。

　まず憲法と法律の違いだが、「憲法」は国作りの基本的なルール、ガイドラインに当たる。憲法がしっかり作られていれば国民にとって住みよい、誇りの持てる「国」ができる。日本に「国」として憲法が出来たのは明治政府からである。この明治憲法は、神権主義的（天皇を頂点とする）であり、民主主義にたった憲法とは言い難かった。日本の明治以降の戦史は明治憲法の解釈によって引き起こされたと言っても過言でない。アメリカに敗戦して「昭和憲法」か制定された訳であるが、これは言うまでもなくアメリカに有利な憲法で、決して日本の国民の発意が反映されていない。アメリカによる押し付けで、日本「国民」の権利や人権などないに等しい。故に日本の政治家は「憲法」から束縛されず、やりたい放題なのだ。我々一般市民は「国」に搾取されていると言ってもいいだろう。

　法律は憲法の元によって作られる。憲法を逸脱した法律は作ることが出来ないことになっている。これは法治国家なら全てがそうである。自治体独自の条例なども憲法を逸脱してはならない。そうしておかないと「国」として制御がきかなくなるからである。様々な政省例は憲法があって初めて作ることができる。

　故に「憲法」が様々な解釈が出来るのであれば、「法律」も施行者によって自由に作ることが出来るのである。現憲法がまさにこれである。昨今の改憲云々はかような理由から沸き起こってる。

憲法や改憲に興味のある方は「時代塾」の改憲フォーラム

http://jidaijuku.s23.xrea.com/

の「公開討論用ブログ」

http://kaikenf.exblog.jp/

を覗かれては如何だろうか。 </description>
	<dc:creator>noraneko</dc:creator>
  <dc:date>2005-12-17T01:40:47+09:00</dc:date> 
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  <item rdf:about="http://noraneko.blogtribe.org/entry-7ba90608ca12e7fa7be5fd9277cfc962.html">
  <title>ケ・セラ・セラ</title>
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  <description>「運命論者」という言葉がある。私は決して運命論者ではない。しかし、我々人間は人知の及ばない、神でもない「なにか」に操られているような気がしてならない。強いて言えば自然の法則に依って動いているのではないのだろうか。それを能動的とも受動的とも感じるのは人間個々の見解の相違からくるのではないだろうか。

よい事が続く、不幸が重なる。これは「偶然」そうなるとも言えるかも知れない。が、「偶然」にしては出来過ぎているとも言える。連続的に「それら」が起こるのはどう考えてみても合点がいかない。偶然の確率の統計学上の数字は知らないが、限りなくゼロに近いのではないか。この世に「偶然」などはなく、全て「必然」の成せるワザでないか、と言う気がする。

「自然力学」、「運命力学」とでも言おうか。いにしえより哲学者、思想家と言えども人間の真理、この世の真理、宇宙の真理、自然の真理等々あらゆる真理を解き明かしたものは居ない。ソクラテス、デカルト、カント、ヘーゲルも弁証に過ぎない。

ならぱ「自然」に任せて生を全うすることこそ真理ではないのか。これを「逃避」とも言えるかも知れない。それさえも見解の相違なのではないのか。</description>
	<dc:creator>noraneko</dc:creator>
  <dc:date>2005-10-11T12:10:07+09:00</dc:date> 
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  <title>自然の豊かさ</title>
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  <description>　私の実家はド田舎です。久しぶりに帰って改めて自然の
多様さ、豊かさを実感しています。太陽の動き、雲の畏敬
の念すら覚える緩急の所作、生き物のなんと種類の多いこ
とか。コオロギ、バッタ、ウマオイ、キリギリス、ムカデ、
マムシ、クモ、トカゲ、ヤモリ・・・。ヤモリってかわい
いんです。夜、窓に張り付き、部屋からお腹が見える。
時々ささっと動いては静止する。顔がすこしマヌケてて愛
らしい(^^ゞ。。

　植物の匂い。癒されます。遅咲きのムクゲが咲いてます。
俳聖の芭蕉にこんな句があります。

　道のべの槿（むくげ）は馬に喰はれけり

私の一番大好きな句です。この句の解釈は諸説紛々ですが、
私はこのような派手でない、何気ないが、想像を掻き立て
る句を目指しています。

我われ日本人は自然の豊かさによって育まれて来たのを思
い出しました。我が国の「八百万の神々」、ネイティブア
メリカンの「全てのモノに精霊が宿る」という考え方など
は自然とともに暮らして来た民族にとっては至極当然の帰
結ではないかと思います。それは、自然を畏怖し敬い、人
を敬い、争わず自然に生き、死んでいく。これがどんなに
大切か、どんなに尊いことなのか、知っていたのではない
のでしょうか。それを忘れてしまった現代の我々は彼らよ
り精神性において劣っているのでないかと私は思います。</description>
	<dc:creator>noraneko</dc:creator>
  <dc:date>2005-10-02T02:11:34+09:00</dc:date> 
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  <title>日本国憲法</title>
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  <description>日本国憲法全文が読めるサイト</description>
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  <dc:date>2005-04-27T10:11:42+09:00</dc:date> 
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  <title>2005年4月27日</title>
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  <description>野良猫ジャーナルのコラムニストならびに時代塾の会員が、それぞれにblogを作成しています。

オランダ王国憲法を巡って　松本さんの新blog憲法をつくる・論じる・考えるblog

ガラパゴス通信カレーライスさんの新blogガラパゴス通信リターンズ

時代塾会員浜島さんのふうらいぼう憲法練習帳


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  <dc:date>2005-04-27T08:58:58+09:00</dc:date> 
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  <title>リンク集について</title>
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  <description>こちらはリンクを専門に扱うカテゴリーです。</description>
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  <dc:date>2005-04-27T08:57:46+09:00</dc:date> 
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  <title>丸儲け</title>
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  <description>　私はとっさに自殺をはかった。幸い未遂で終わったが。500ml ビールと市販の風薬1本飲んでしまった。何故かは解らない。私は人並みに働くことは出来ない。常に社会に対して負い目を感じている。人は何故働かねばならないのか。ひとつの要因に生きて行くための糧を得らなければならない。つまりカネである。カネがなければ雨露もしのげない。まるで社会がカネの奴隷のようである。もうひとつは「貢献感」というややこしいものである。この貢献感が人を社会の奴隷にしてしまうのである。もしこの貢献感が人間になかったとしたら、社会は成り立たなくなるのだろうか。

　私はそうは思わない。貢献感は突き詰めていくと自己満足の塊ではないのだろうか。社会に貢献しようなどというのは傲慢な感情ではないのだろうか。己ひとりで社会が動くとてもいうのだろうか。

　私のように働けないものはどうしろと言うのだろう。人間働けなくても出来ることはあるはずである。人にアドバスをしたり芸術で人を癒すことだってできるのである。貢献しょうと思うからこそ人は疲弊し、絶望に苛まれるのである。

　人間ひとりひとり出来ることをしていけば自ずと社会はより良くなるはずである。「社会に貢献」しようなどとは思わずに。

　人間生きているだけで丸儲け。</description>
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  <dc:date>2005-03-24T23:44:56+09:00</dc:date> 
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  <title>平成枯れすすき</title>
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  <description>　久しぶりのエッセイで、徒然に書きます。「降る雪や明治は遠くなりにけり」と言う中村草田男の名句があります。これは明治を懐かしんで詠まれたものです。我が昭和も遠くなりにけり、と言わざるを得ない平成の世相になったものです。

　昭和は６０余年続き、世代によって感慨は違うでしょう。しかし昭和５０年頃までは良くも悪くもある種のエナジーがありました。安保闘争、高度経済成長、ヒッピー族、反戦運動等々。私の記憶に鮮明にあるのは東大安田講堂などの安保闘争です。私は小学生だったので安保の意味は分かりませんでした。みんなでおしくら饅頭をやっているな、と印象深かった訳です。

　その直後に蔓延した空気も興味深かったです。敗北感と言うか熱から冷めた夢のあと、のような感覚。よくは知りませんが、所謂ひとつの「三無主義」ですか。私が何故この言葉を知っているのかと言うと、その頃テレビで放映されていた青春学園ドラマ「おれは男だ！」で描かれていたからです。深夜ラジオに耳を傾け、同級生を「三無主義」から救おうとする主人公。私はその姿に燃えました（笑）。

　そういえば沖縄日本返還反対と声高に叫んでた人達もいたような・・・。学校の先生でしたが、私たち児童を洗脳して一緒に叫んでました。あの時何故反対するのか、説明してくれましたが、判断力の薄い年頃故、妙に納得させられました。あの時の先生の説明が適切だったかどうか今になっては疑わしいものです。もっとも、何を説明されたか全く覚えていません。

　私は昭和など懐かしくありませんが、平成の世は昭和よりも危険な時世になっていくのでは、と危機感を抱いています。
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	<dc:creator>noraneko</dc:creator>
  <dc:date>2005-03-14T19:26:26+09:00</dc:date> 
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  <item rdf:about="http://noraneko.blogtribe.org/entry-701bc0d29dd91e8b611662e587cdd3a9.html">
  <title>Tと言う皮</title>
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  <description>なんなんだこの違和感は・・・自分が歩いているはずなのに廊下からペタペタと音が鳴っているようだ。周りの連中もなんだか影のように俺に寄り添っているようだ。
じゃぁ俺は？俺はここにいるのか？
いや、俺すらいないよ。
ただ、ペタペタと廊下から音が鳴り、絞首刑台というところに向かう俺の身体があるだけだ。
そんな俺の身体の口が開き言った。
「おお、つかれたなぁ、とっととやってくれや。」俺の身体の言葉に反応したのか、看守の一人が俺をにらみつけた。あと少しでこの世から死ぬ人間に向けられた目は憎悪を含んでいた。
泣き叫ぶ子ども達を追いかけ回し包丁で刺し殺した人間に向けられる目、それは憎悪の含むものであたりまえだろう。弁護士だって腹の中ではこんな悪人は居ないっておもっているに違いない。
考えてみれば俺はこんな目で動かされ生きてきたような気がする。そしてその目に俺は答えてきた。いや答えると言うよりもふわふわと憎悪の目を持つ人間達に演技を見せていたと言った方が良いのかも知れない。

演技演技、本当の俺なんてどこにもいやしない。みんなが見ているのは俺が演じている俺なんだよ。

まわりの景色、白い壁やグレーの壁がカスミの中で流れるように流れていく、そして時折、ふっくらとした隆起が現れるが、これは多分、柱とかドアなんだろう。時間が揺るやかにながれている。まるでこれからも永遠とこのカスミの中を歩いていくような気分だ。

やがて、カスミの中に目が表れては消え始めた。恐怖に怯える小さな目、そして憎悪の多くの目が壁や廊下に貼り付き俺を見ている。中には優しい目もある。でも、そんな目は俺を無視している。目玉だらけの廊下を俺は歩いた。歩くたびに俺に向けられる目は憎悪に満ちたモノになっていた。ひょっとするとこの目達は俺が出会ってきた目なのだろうか・・・。
ああ、そうか。そうなんや。段々と見覚えのある目が表れてきた。

ああ、あの目は俺が追いかけまして刺し殺した女の子目だ。青から黄色そして緑、色が変わると色が変わったのが解るようにそのこの目の色が驚き、恐怖、苦しみ、そして憎しみへと徐々に変わるのが俺には解った。そして最後にその目は嘲笑へと変わった。でも、俺は無いも感じはしない。俺の真ん中にあるものは空っぽ。あんぐり口を開いた暗闇があるだけだ。

ああ！！次は椅子に座っているところを刺したあのこの目だ！同じように恐怖から嘲笑へとかわっていく、いくつもいくつも同じ目が現れては消えた。

俺の身体は看守達に悪態をついている。多分、目玉達に言いたいのだろうが、自分が狂っているとは思われたくないので、看守達にいっているんだろう。

「ええのう、法律で人を殺せて！！」おれがそういうと看守の一人が「もうちょいでお前ともおわかれや」というと鉄の扉を開いた。

扉が開かれれるとカスミの中から大きな目が現れた。悲しい目だ、優しい目だ。
あの人の目だ！俺と結婚してくれたあの人の目だ。今までに何人もの女にひどいことをしたけれどこの人には指一本だって触れていない。そして彼女はいつでも優しい目を向けてくれた

首にロープがかけられた。それでも俺の身体は大声で悪態をついている。

俺は俺の身体を無視して大声を自分の中で上げた。

触れていない・・・触れていない・・・
触れたい・・・触れたい・・・
抱きしめられたい・・抱きしめたい。
恋しい。恋しい。
俺の真ん中は空洞の筈だ。どうしてこんな気持ちが起こるんだ。俺の中に本当の俺が居るのか。

ばりばりとサナギの皮を破って昆虫が羽根を伸ばすように俺ここを飛び出したい
そしてこの身体をおいて飛び立ちあの人のところへ行きたい。

肛門からクソが漏れているのが解る。臭いだって解る。

暗闇が襲ってきた。

ああ俺はこれでここに閉じこめられるんだ。この暗闇に・・・





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	<dc:creator>noraneko</dc:creator>
  <dc:date>2004-10-06T12:50:20+09:00</dc:date> 
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  <title>死刑制度というもの</title>
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  <description>
面白いモノで死刑制度というモノが廃止されている国々は私刑が盛んだった
国々である。つまり、死刑を廃止した国々では社会が死を与えるということ
が市民に浸透した国家。

そのような国家では社会による殺人を自分が行っているという自覚が市民
にはっきりと芽生え、制度化されていた。故にその制度を廃止するのも自
らが行えた。

市民による殺人が制度化され死刑を続けていた国々が、どうして廃止の道
を選んだのか。

それを「殺した人は殺さざるを得なかった」という人権派のような言葉で
犯罪者人権の観点からくぐるのは、余りにも危険なのではないだろうか。
共存のための社会的な合意殺人。それが社会が犯罪をなくす一助にはなり
えなかった。単にその事実の積み重ねが彼らに死刑を廃止させる原動力と
なった。もちろん、その死刑が我らの者という自覚が市民にあった故では
ないか。

昔、フランスでギロチン刑が廃止されたときに「我らにギロチンを返せ」
とデモが起きたという。結局は廃止という事になったのではあるが、彼ら
の言葉は死刑制度というものが明確に自らのモノであるという事を示して
いるのではないか。

社会が裁判という量刑の上で最高刑として死刑を定義する。そのなかで、
被害者達は最高刑として死刑、つまり殺人を望む。個人が誰かの殺人を
望み請求するような制度、それが死刑制度と言っても良いだろう。殺人
を殺人で繋ぐ連鎖。罪人を裁くなとは言わない。しかし、殺意を綿々と
個人の中で紡ぎ出してしまう死刑というものはいかがなモノだろうか。
殺人の肯定を行った者が殺人者を殺人によって罰する。矛盾そういって
良いのではないか。

そして、その殺人は自ら行ったという意識を持たない。自らの殺意に対
しての疑問を持たない。

殺意の全面否定＝死刑廃止

自らが自らの決定権を持ち、それを収斂させる事が可能な国家において可能
な実験である。その結論が出るのは、ひょっとすると数世紀先のことかも知
れない。しかし、これは市民の暴力を望まぬという大きな祈りであり、現行
の効果が薄い死刑制度に代替すべきモノを模索する偉大な実験であると僕は
思う。

最新のアンケートでは日本国民の９８パーセントが死刑制度に賛成しているという。

反対派も含め、自らが死刑によって殺人を行っていることを我々は持たなければならないのではないか。そして、死刑に賛成すると言うことは自らが殺意をもっていると言うことを明確に自覚しなければならないのではないか。

そのうえで我々は死刑制度の是非を自らで決めなければならない！

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	<dc:creator>noraneko</dc:creator>
  <dc:date>2004-09-21T13:46:14+09:00</dc:date> 
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